1971年、宮城県仙台市に生まれる。父は福島県人。母は沖縄県人。両親共にクリスチャン。15歳で、憧れた米国へ渡米し、オクラホマ州にあるミッション・スクールへ入る。それまで劣等感、自己嫌悪感、親に対する不信と不安感情を抱きながら生きてきたが、米国でイエス様を「私の救い主」として受け入れ救われた。そして16歳の夏、三千人のクリスチャンに囲まれて、洗礼を受ける。
1994年、米国カリフォオルニア州のBIOLA大学を卒業し、その後、グラフィック・デザイナーとして米国に留まり働く。一年程広告代理店に勤務し、24歳の時に、通っていたロサンゼルス近郊の日系教会で献身する。主任牧師(錦織寛先生、現東京聖書学院院長)の勧めで、日本での神学の学びを決意し、翌年の春、東京聖書学院へ入学する。三年の学びを経て、キリスト教の牧師となるために、再び渡米。1999年の夏より北米ホーリネス教団の教職となる。任地は、カリフォルニア州南部の小さな未自立の日系人教会。礼拝はバイリンガルでささげた。この教会の主任担任教師として8年勤務し、その間、神学校時代に出会った女性(写真の人!)と結婚し、二児の父となる。
2007年、聖書が記された中近東とイスラエルに強い関心を抱き、休職と留学を決意。同年秋、家族を連れてイスラエルへ渡り、ヘブライ大学大学院へ入る。そこで聖書学を学ぶ。大学院に通学しながら、ウルパン(現代ヘブル語の語学学校)へも通い、苦しみもだえながら(!)どうにか卒業した。その当座、娘と息子は現地の小学校と幼稚園に通わせた。幸い、ヘブライ大学の奨学金制度に通り、学費9割は免除された。双方の親からの理解と支援もあり、この3年間で神様の御業としか思えない経験をする。
2010年末に帰国し、数カ月後、東日本大震災を経験。鬱になる。新潟の地には、身寄りがいなかったが、空き家があったため家族で住むことにしたが、ここに神様の導きがあったことを少しずつ確かめ11年春より、新潟県県庁で非常勤職員として働き、新潟聖書学院ではヘブライ語や旧約聖書を教えながら生活する。13年春より当教会で「見習い牧師」を始める。
2014年春、日本同盟基督教団に正式加入し、当教会の主任担任教師となった。ちょうどこのイースターの時期が予定日の三人目の子、次女に、復活を意味する「生(いく)」という名前を与え、家族四人で名前を呼びながら冬の寒さを耐え、春を待った。教団に正式加入する10日前、娘は予定よりひと月早く生まれ、息を引き取った。この日は3月10日。三年前震災が発生したのは3月11日。新潟での生活は、新潟での牧師としての活動は、この東日本大震災と娘を天に送る、という経験から始まっている。今でも3月は辛い。しかし、命でありよみがえりであるイエス様をいつも思えるように変えられている。